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源氏絵

 

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1)浮世絵の成立過程
源氏物語自体は、平安時代末期に紫式部により執筆されたわが国初の長篇恋愛小説であり、全体で五十四帖からなっている。主人公 光源氏の一生が「桐壺」から「幻」まで、光源氏亡き後の子孫の物語りが「匂兵部卿」から「夢浮橋」までという構成になっている。源氏物語を題材にした絵画を総称して「源氏絵」といい、絵巻物や屏風、扇面 などに描かれている。

 この源氏物語も六百年後の江戸時代後期ともなるとすでに古典であり、題名は知ってはいてもその雅びやかな王朝文化を伺い識るものは少なかったのである。そういう時代に原作柳亭種彦、挿絵歌川国貞による合巻本「偐紫田舎源氏」(注1)が登場するやたちまちベストセラーとなり、源氏ブームを巻き起こしたのである。「 偐紫 」としたのは、作者を偽紫式部とし、また似せ紫の意も込めている。「田舎源氏」とは、卑俗、まがい物を意味している。

 「偐紫田舎源氏」は、原典の「源氏物語」と登場人物の名前は似通ってはいるが物語の展開は大きく異なり、足利光氏を主人公とし時代を室町時代の応仁の乱前後に移し、山名、細川の争議を中心としたお家騒動を取り上げた勧善懲悪の物語となっている。

  当時「南総里見八犬伝」で有名な滝沢馬琴は、戯作者として自他共に認める第一人者であるというプライドを刺激されたのか「あれは種彦の戯作よりも国貞の挿絵で売れたようなものだ」といったという。種彦の大衆受けする文体表現、ストーリー展開に加え宮廷生活を彷佛とさせる国貞の描写 は絶賛をもって迎えられ、やがてそのブームにより以前のものとは少々異なった意味合いも込められ『源氏絵』(注2)と呼ばれるジャンルが確立されるにいたり、他の絵師も手掛けるようになる。源氏ブームは大名から武士、一般 庶民に至るまで浸透し、源氏絵に出てくるそのままの着物、髪型、キセル、煙草盆の道具類が流行したのである。

(注1)合巻本:絵入り小説の一種。数冊をまとめて綴ったのでこの名がついた。
(注2)紫式部の「源氏物語」以外に「偐紫田舎源氏」の場面を描写したものをも(むしろこちらの方を主として)『源氏絵』と呼ぶ事。

 
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2)源氏ブームの状況
「偐紫田舎源氏」(以下田舎源氏という)は版元仙鶴堂(鶴屋喜右衛門)から、柳亭種彦作、歌川国貞画により文政12年(1829年)に初編を出版され天保13年(1842年)までの14年間の間に三十八編を刊行し作者死去のため未完のまま終わったが、源氏ブームは明治初期まで続いている。

種彦自身の名声も高まり、”柳貞好み”とよばれる源氏絵に見られる道具類がもてはやされ、種彦の偽物も現れ世間を騒がせたという。天保7年にはその名も「偐紫楼」という新居も完成している。もっとも「田舎源氏」のヒットによる稿料だけで建てたとは考えにくいが、大きな比重を占めていたことは、彼が旗本とはいえ小粗請組と呼ばれる録はあるが、定職のない組織に属していたことでわかる。

 「田舎源氏」は合巻本という性質上、当初読者層の中心を女子供、さらに一般 大衆とし、娯楽性を第一としているため、挿絵の出来が重要で現代でいえばマンガやグラフィック誌の先駆けのようなものであるから、絵柄が第一で文章(筋)はその次とされる傾向にあった。それ故、画工の地位 は高く評価され、絵柄の出来によって売れ行きは大きく左右されていた。種彦は親交があり、他の作品でも一緒に仕事をし絵草紙、合巻本の挿絵においても人気を博していた歌川派の絵師国貞を画工とし、度重なる加筆、修正の上で「田舎源氏」を刊行したのである。

 
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庶民にとっては、光源氏は知らなくとも光氏なら誰もが知っている当時のスターだったのである。天保13年、水野忠邦の天保の改革は出版統制にも及び種彦はお咎めを受けたが、それがもととなったのか 種彦はまもなく没した。種彦の死去により「田舎源氏」第三十八編で終わったが三十九、四十編については草稿が残されており、それをもとに門弟によって安政・元治年間まで書き継がれたという。 いかに人気を博していたかがわかる逸話である。特に国貞(三代豊国)は種彦没後も源氏絵を描き続け、質・量 とも膨大なものであり総計で一千点以上にのぼるといわれている。
 
  浮世絵においても「田舎源氏」の各場面を取り上げた作品以外にも擬源氏…とか今様源氏…、当世源氏、吾妻源氏…というような題名で田舎源氏自体が原典の「源氏物語」を換骨脱胎したものだといわれたように、いかにも田舎源氏の一場面 のごとく描いたもの、あるいは田舎源氏の登場人物、事物に縁のあるもの、共通 点(単に言葉上だけのこともある)を取り上げ描いたものなど色々な浮世絵が登場してくるようになる。
 
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