(3)[2判] 歌川派門人会通信ジャポニスム 平成9年7月20日 合併1号 (通巻7号)

シリーズ「浮世絵による歴史再発見」

梓美術文化研究会 桐越 陽子 (浮世絵研究家)

創刊号〜3号掲載

 長野県在住で、浮世絵を収集する一方で、ご主人の誠篤さんと共に梓美術研究会を主催する桐越陽子さん。豊富なコレクションの中に史実を検証する資料を見つけ出し、地元の歴史など地道な研究活動を続けている。本誌で研究成果 の一部を、連載で発表していただきます。

「第一回」 源氏最初の征夷大将軍は木曾義仲だった!!

 歴史を勉強中の学生さんや歴史好きの人は別 として、多くの日本人は源義仲という人物をよくは知らないのではないでしょうか。
 しかし、源氏の武将のなかにおいても、最初に『征夷大将軍』となったのは頼朝ではなく義仲なのです。壇ノ浦で平氏を滅ぼしたのは義経・範頼であっても、平氏の退官を促し都から退かせて、都に無血で入り後白河法皇に官軍と認められ、明らかに時代の変革を担ったのは義仲でした。
 ただ義仲にとって不幸なことに、源氏の中での総領争いで頼朝軍に敗北してしまったのです。そして、義仲が征夷大将軍の宣旨を受けてからわずか一週間の後に、31才の生涯をとじました。
その後、頼朝が征夷大将軍となり幕府をつくって、時代は鎌倉時代へと推移しました。鎌倉時代に成立した『平家物語』や『平氏盛衰記』、鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』によって語られる義仲はどうしても頼朝側の目で見られたものであろうし、現代教育の中に置いても頼朝にウエイトが置かれています。 「いい国(一一九二)つくろう源頼朝│鎌倉幕府成立」などと、貴族にまねて専横を極め堕落した平氏を、頼朝が率いる質実剛健をモットーとする源氏が討ち滅ぼして、鎌倉幕府へ移行したというのが現代の一般 的認識でしょう。  しかし、歴史認識は時代によって異なるものです。それは治世者によっても社会情勢によっても、また国際的な諸外国との関係との関係によっても変わってしまうものなのです。  この度「木曾の山猿」とか、「専横を極めた」「礼儀をわきまえぬ田舎者」などというイメージで捉えられている木曾義仲の、本当の姿や歴史上の功績などについて、正しく捉え直そうと取り組んでおられる義仲復権の会の松本市の代表・穂苅甲子男氏が、江戸時代の民衆の中では義仲がどのように捉えられていたのかを検証するために、江戸時代の浮世絵を蒐集されました。
それらの浮世絵を拝見し、絵柄や作者の各武将の捉え方、表現の仕方などを調べて、義仲の本当の姿にせまってみたいと思います。


源氏武者合 一猛斎芳虎(歌川芳虎)画    嘉永五年(1852年) 版元/上州屋金蔵

 源平合戦に名を残した源氏方の武者などを役者番付表のように名をあげて、その肖像を描いてある。義仲は中央上段に旭将軍木曽義仲として描かれている。
 他に、二歳の義仲を匿い新し国の秩序を見据えた武者に育て上げた中原権守兼遠、乳子として育ち、生涯義仲を守り助けた今井四郎兼平、樋口二郎兼光、義仲の愛妾であり、また女武将で名高い巴御前、勲功多い根井太弥太行親(図中は親忠と誤記)など義仲の関係者も登場している。

木曾義仲のおいたち

 木曽義仲は久寿元年(一一五四年)、上野国多胡庄にて、清和源氏の嫡流である源為義次子・源義賢を父とし、母は小枝御前の子としてこの世に生をうけました。
 その頃は平安時代の末期で、力のない貴族に対し傭兵として勢力を伸ばしてきた武士達の棟梁として、平氏と源氏が地方の武士達を吸収し、大きな力を持ち始めていました。そして武力によって勢力争いが盛んに行われていました。源氏の流れをくむもの同士での覇権争いもあり、為義の長男・義朝と次子である義賢もまた勢力を競っていました。義朝は源氏ゆかりの相武・両総地方に大きな勢力を持ち、東海道の東国の接点を押さえ、義賢は上野・武蔵地方に大きな勢力を持ち、東山道の東国への接点を押さえていましたが、両者が互いの勢力を伸ばしたため、武蔵野大蔵館(埼玉 県比企郡嵐山町)で衝突しました。義仲がわずか二歳の時でした。そして、義仲の父義賢は、甥に当たる義平(義朝の三人の子のひとり。あとの二人は頼朝と義経)に討たれてしまいます。義平は、畠山庄司重能に義仲を探し出して必ず殺せと命じたあと、京都へ向かいました。しかし畠山庄司重能は、いたいけな二歳の義仲をあやめることができず、斉藤別 当実盛に養育を頼みました。斉藤別当実盛は、義仲と母である小枝御前を、義平の目を逃れて木曾の中原三郎兼遠のもとへ送り養育を頼みました。兼遠は自分の子供達と共に養育し、後の時代の大きなうねりの中でも、志をつらぬ いて武勇の誉れ高い武将に育て上げました。
 この後、源氏・平氏が入り乱れて戦った保元・平治の乱が起こり、平清盛が実権を握り、平氏の世を築きました。

次号に続く

「第二回」  2号掲載(平成8年8月15日)

旗上げまで

 義仲の幼名は駒王丸といいました。養父である信濃の中三権頭・中原兼遠には、樋口二郎兼光、今井四郎兼平、落合五郎兼行、そして美貌と武勇有名な巴御前という子供達がいました。兼遠は駒王丸を彼らと共に育て、駒王丸は源氏再興と世直しを成し遂げられるように、自分の子供達は駒王丸の守りと補佐を務められるよう、武芸と勉学を修めさせました。やがて駒王丸は元服し、木曽義仲と名のりました。その頃には、兼遠の力もあって、信濃中部の豪族や武士が義仲のもとに結集し、信州の高原(御牧)で育った優秀な馬を多数もつ義仲軍は勢力を蓄えていました。

 義仲四天王とともに木曽の奥山に天狗を退治す
 勝川春章 画 寛政三年(1791)頃 版元 南伝馬三藤彦

そして、一一七三年には、長男、清水冠者義高が生まれます。また、平氏の治世の不満を抱くものも多く、一一七七年には平清盛を筆頭とする、平家を打倒しようとする陰謀が起こります(鹿ヶ谷の陰謀)が、清盛の知るところとなり、藤原成親ら首謀者が捕らえられました。一一八〇年には、源頼政が以仁王を奉じて挙兵しますが、宇治に敗死してしまいます。しかし、源行家は以仁王の令旨を各国の源氏に伝え、源氏の再興を訴えました。当然、伊豆に流されていた頼朝のもとにも、木曽の義仲のもとにも令旨は届きました。頼朝は最初の挙兵で、石橋山に敗れますが、再び挙兵し、今度は富士川の戦いで平氏を敗りました。一方、義仲は状況を見て準備をしていたと思われます。そんな折り、拠点を北信濃に置いていた平氏方の笠原頼直が源氏討伐と領地拡大のために信州北部の村山義直を攻め込み、義仲は村山義直の援軍の要請を受け出陣しました。そして初陣を飾ります。
 実は背景には、国司は京の都に住み、実質地方を治めていた領主達の『米』と領地の奪いあいがありました。天候などに左右される『米』の年貢を取られれば領民は生死を賭けねばならず、藤原氏を真似た清盛の命を受けた平氏方の領主に変われば、さらなる年貢の取り立てに泣かねばならない信濃でした。信濃の国の源氏方の領主達は、平氏の脅威にさらされているところに為義の血を引く義仲がおどり出て信濃を守ったので、世直しの担い手として期待し義仲のもとに結集しました。すでに貴族の治世は根底から破綻していました。単に源氏と平氏の間の確執や権力争いの問題ではなかったのです。
 越後に逃げた笠原頼直の知らせに驚いたのは平氏方でした。平氏討伐に戦っていた義朝の嫡子頼朝の名はすでに京都の平清盛の元にも届き、平氏も警戒を強めていたでしょうが、山深い信濃の地の義仲にはさほど注目もしていなかったものと思われます。平氏は越後の城助永に信濃の平定を命じ、城助永は清盛に義仲はじめ源氏方を討伐し、平氏による信濃の平定を約します。そして、三万の大軍をもって、信濃に進軍しようとします。その情報を得た義仲は、迎え打つ準備をしました。治承五年(一一八一年)の冬、二月のことでした。しかし助永は進軍の途中急死してしまい、助永軍は一時撤退を余儀なくされました。そして、六月(現代の暦では七月)、助永の弟である助職が一万三千余り(一説には三万)の兵を再び集め信濃に向けて進軍、迎え打つ三千二百騎(一説には二五〇〇)の義仲軍と現在の長野市近くの横田河原にて衝突しました。しかし、義仲軍はこの戦いにおいても勝利をおさめ、助職軍は越後に逃げ帰ります。義仲軍は助職軍を追う形で越後に入り、助職軍を出羽に追いやって越後の国府に入りました。越後の各地に、義仲や巴御前に非常に好意的な伝承が残されていることから、義仲軍の越後国府入りも大変歓迎されたものと思われます。

「第三回」 3号掲載(平成9年7月20日)

 義仲軍は、角に火のついたたいまつをつけた牛を放ち、平氏軍を倶利伽羅谷に追い落とし、大勝したといいます。(図一 倶利伽羅谷合戦図)この策で平氏軍は大将も逃げ出し、勢いを得た義仲軍は、加賀の国の安宅、篠原の戦いを勝ち、日野川の合戦も制しました。  この後、義仲は比叡山衆徒と同盟を結び、都へ向かって進軍しました。(図二 義仲北国日野川合戦) 一方、法皇は、平氏を捨て、平氏一族は安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちし、義仲軍は平氏のいない都へ乗り込み、法皇から平氏追討を命ぜられ、官軍となりました。そして平氏は解官され、義仲は左馬頭兼越後守に任ぜられた数日後、伊予守に改め、朝日将軍の称号を与えられます。  しかし、義仲は法皇に対し似仁王の子北陸宮天皇にと進言しますが用いられず、京の治安は悪く、義仲軍の狼藉と噂され、貴族の間では義仲の実直な性格が礼儀知らずと受け取られてしまいます。  一方、頼朝は、朝廷・貴族・民衆に取り入れられるような提案をし、皇嗣問題で法皇にふりまわされていた義仲の無策との対比で、ますます貴族らの信頼を得ていきました。  義仲は平氏との和解を図りますが失敗し、さらに平氏追討に出兵しますが、海戦に不慣れなことや、味方勢の寝返りなどにあい、敗戦してしまいます。  法皇との仲も悪化していましたが、寿永三年一月に、義仲は征夷大将軍を与えられます。しかし、すでに法皇を味方につけた頼朝勢は、源義経と源範頼が法皇守護のため、義仲軍を追討しようと京に迫っていました。  そして征夷大将軍となってわずか一週間の後に、義仲軍は宇治川と瀬田の戦いに敗れ、義仲は琵琶湖畔の粟津原にて最期を遂げます。 その様子は平家物語にも悲哀をもって語られ、ことに乳兄弟今井兼平を気遣い京に向かう兼平が、粟津原で出逢い、味方が数騎になりながらも戦うくだりや、初戦から義仲に従い、女武者として活躍した美女巴御前に、義仲が、女ゆえに落ち行き生きろと命ずるくだりは有名です。

「 完 」


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